- サルの恨み 西方寺
昔、ある春の夕方,京町の武家屋敷で、主人が弓の手入れをしていたら、庭の松の木に腹の大きな猿が迷い込み、枝の二股の部分に腰かけて弓の手入れを見ていた。気が付いた主人は、格好の標的とばかり、矢をつがえてサルを狙った。
サルは手を合わせ、腹を撫でて助けてくれと言わんばかり。主人は構わず腹の真ん中を射抜いた。ところが、それからこの屋敷には不祥事が重なり、ついに家は断絶した。
その屋敷は供養のため、西方寺に移され、寺では部屋を建て増して、いつか「サルの間」と呼ぶようになった。
ここに妊婦が寝ると、欄干のところに猿がの姿が現れて、安産を祈る様なしぐさをする。
その場合妊婦は間違いなく安産するという。
- 子のひじり権現 心光寺
この木彫仏(座形法師像)は、寛保4年(1744)庄島小路の観音寺(廃寺)内に祭られ参拝者も多かった。
ある時、いずれかの寺院に移し祀るべしとの藩主命が出たので、争ってこれを移そうとしたが、権現に手を掛けると腕がしびれて、誰も運ぶことが出来ない。
時の心光寺15代目和尚がこの話を耳にし、人がとめるのも聞かず、大杯で酒をあおるや権現を担いで帰ってきたという。
- 今町の不動 心光寺
昔、心光寺に物覚えの悪い小僧がいた。
3年たっても経文も読めず、掃除ばかり熱心にするので和尚も困り果てて、今町の不動に21日の水垢離行を言いつけた。小僧は言われたとおり、早朝から行を務めたが、満願の朝、不動尊の前でついうとうとと眠ってしまった。
すると、全身火に包まれた不動が現れ、小僧の口に剣を突っ込んだ。
はっと目覚めた小僧は、それからだんだん物覚えがよくなり、後には都に上って立派な層になったという。
この不動は4代目藩主有馬藩主頼元の聖母定昌院が、頼元と等身大に彫刻したもので、明治の神仏分離令で、明治5年(1872)心光寺に遷座した。
- 川上り薬師 医王寺
昔、医王寺の院主が病気にかかったが、なかなか治らず、薬師如来に17(いちしち)日(にち)の願を掛け、懸命に祈願した。
しかし、いっこうに治らないのでまた7日間祈祈ったが、それでも効き目がない。「こんな頼りない仏さんなら何の得もない」と、高野に運んで、寺男に命じた、寺男が言いつけどうり川に投げ込んだところ、薬師は沈むどころか、流れもせず、遂に川上にに向かってさかのぼっていった。
これをみた寺男は、腰を抜かさんばかりに驚き、薬師仏を拾い上げ再び持ち帰った。院主も話を聞き、驚いて元のようにお祭りした。以来、川上り薬師というようになった。(筑後里人談)
- 水引き地蔵 正覚寺
天正年間(16世紀後半)、正覚寺は西牟田にあった。ある年、日照りが続いて、田は地割れし、稲は枯死した。三甫和尚は懸命に本尊の地蔵菩薩に祈願を続けた。
- 片手の薬師 遍照院
昔、田町に片手の薬師が祭ってあった。
もと肥後玉名の庄山に祭ってあったものだが、ある晩、堂守の夢枕にたった薬師が祭ってあった。
久留米に移してくれと言われた。堂守は、遠い久留米まで重い御尊像を運ぶのは無理とお断りしたが、翌晩もその次の晩も現れ、堂守が困惑していたところ、ある朝、薬師の左手がなくなっているのに気付き、あちこち探したが見つからない、。疲れて寝込んでいると再び、「左手は久留米の南のたんぼにある」とのお告げを受けた。
そこで久留米に来て探してみると、田町のたんぼの中に落ちていた。
堂守は、これほどまでに薬師様がお望みならと、近所に人に相談して田町へ移し、自らも出家して名を了定と改めた。
田町は空襲で焼けたが、薬師は今も遍照院に祭ってある。
- 楊柳観音 心光寺
寛政4年(1792)仙台岳の大噴火があり、島原はあちこちで山崩れを起こし、海岸部では大津波が押し寄せ、8万人もの犠牲者が出たと言われる。
その後しばらくして、島原北有馬の沖に、夜になるとぴかりと光るものが波間に漂うので、死者の霊かと恐れられたが、次の晩、確認のために船に僧侶を乗せて現場にこぎ寄せ、読教しながら綱を架けて引き上げると、真っ黒な仏像が光っているのであった。浜で運んでよく見ると、この仏像は、明の杭州にある雲妻寺の蓮池大師が刻んだ入魂の楊柳観音で、
いつからか、雲仙岳の麓に祭られていたことが分かった。
村人はすぐに堂をたて像を安置したところ、良いことばかり続き、よそからも多数の信者を集めることになった。
心光寺13代目の観誉和尚が島原の修行の途中、無理に相談して譲り受けて祭ったのがこの観音である。
雲仙噴火で海への押し流された際、下半身が焼けているので焼け観音とも言う
- 桶冠(おけかぶ)り観音 少林寺
昔、豊後日田の曲桶原に、春岡長者という金持ちがいた。残念なことに子供がいないので、満の長者宅にある聖観音が、子授けに霊力があると聞いて、拝み倒して譲り受け、屋敷に祭って朝夕欠かさずお参りした。
一月ほどたったある晩、白衣の老人が鏡をくれた夢を見た。それから10ヶ月目に、女児を授かった。玉姫(少林寺の「樋冠観世音略縁起」には玉津姫=継体天皇皇女とある)とういなのとおり美しい女の子で、長者夫婦はたいそうなかわいがりようだったが、玉姫が16さいになったとき、ふとした病気がもとで夫婦とも死んでしまった。
一人になった玉姫は、毎日泣き暮らしていた。悪いことに夜になると鬼が出て、召使いも一人ずつつれさっていき、ついに玉姫だけになってしまった。鬼は、玉姫が聖観音を拝み読経しているだけで近付けず夜明けになると消えていった。玉姫が夜の疲れでうとうたしていると、層が現れ、「今後も信心を失わずにいよ。古木にも必ず花は咲くものだ」といって消えた。
- 塩漬け婆さんの墓
昔、筒井川には日暮れになると追いはぎが出るので、日没になると通る者はめったにいなかった。
あるとき、お遍路の老婆が日暮れの筒川べりを通っていると、案の定強盗が現れ、財布を奪い、老婆を刀でなぎ払って去ってしまった。悲鳴を聞いて川岸に住む老人が駆けつけてみると、老婆は息も絶え絶えに、「私は肥後の者でして、娘が筑後に住むと聞いて訪ねてきましたが、実は筑前にいるとのこと。娘に会えなかったのが残念でなりませんが、万一娘が訪ねてきたら、まんじゅう笠の受け台と衣のえりに少しばかり銭を縫い込んでいますので、渡してください」といって息を引き取った。
老人は、棺に塩を詰め、老婆の死体が腐らないようにして、娘が訪ねてくるのを待ったが、ついに現れず、100日目に埋葬した。これが、塩漬け婆さんの墓で、いつからか、そこの墓地全域を漬け墓と呼ぶようになった。
- ひょうたん墓 遍照院
墓地に、「ぐうたら九兵ヱの墓」という、ひょうたんのかたちをした奇妙な塔があるが、実は天草生まれの蘭方医西道俊の墓である。
道俊は、高山彦九郎とともに勤王思想普及のため各地を転々としたが、旅費は得意の曲芸をして稼ぎ、どうぐら九兵衛と名乗っていた。その後、盟友彦九郎が久留米で自刃して、遍照院に葬られたのを知り、道俊は墓前に座り込んで号泣した。
更に、腰にしていたひょうたんを取って墓に酒を注ぎ、残りを自分で飲むと、彦九郎の後を追った。
道俊の知人や同士がその死を悼み、彦九郎の墓の傍らにひょうたん型の墓を作り、葬った。切腹は享和二年五月二日、享年七十三歳だったという。