概要
筑後川は有史以前から度々氾濫し、流域に大きな被害を与えましたが、一方で、肥沃な平野を生み出し、豊かな穀倉地帯を作りあげました。
久留米市は、筑後川の恵みを受けながら、奈良・平安時代の筑後国府設置から現在まで、佐賀県東部を含む福岡県南地域の中心地として発展してきました。
江戸時代は有馬家の城下町として、近代以降は久留米絣の町からゴム産業の町として発展しました。ブリヂストンは久留米が生んだ世界的企業です。
また、昭和3年に創立された九州医学専門学校は久留米が医療の町となる契機となったものです。このように、久留米は歴史の奥深い蓄積の上にある都市です。
歴史
律令制下で制定された令制国の一つである筑後国の国府が置かれ、以後、筑後国の中心として栄えた。
平安時代末期の長寛2年(1164年)、肥前国の豪族草野永経が現在の草野地区(旧草野町)に入り、以後約400年間、北部の山本郡は草野氏が支配し、南部の三潴郡は筑後十五城筆頭の柳川の蒲池氏と久留米市西牟田の西牟田氏が支配。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州国分の結果、筑前・筑後と肥前のそれぞれ一部を与えられた小早川隆景の養子・秀包が久留米城に入った。
関ヶ原の戦いの結果秀包は改易され、石田三成を捕らえた三河国岡崎城主田中吉政が柳川城に入り、筑後一国を治めた。
元和6年(1620年)、柳川2代目藩主田中忠政が死去すると田中家は無嗣断絶となった。
田中領筑後一国は南北に分けられ、うち北部に有馬豊氏が丹波国福知山(現在の福知山市)から加増移封され、以後久留米は有馬氏の統治による久留米藩の中心地となった。
江戸時代は藩の殖産興業策もあり久留米絣など、商業都市として発展する。
県庁所在地だった
廃藩置県によって久留米県(→三潴県)の県庁所在地となったが、1888年(明治21年)に三潴県が福岡県に統合されたため県庁所在地ではなくなった。
1897年(明治30年)に第12師団、1907年に第18師団の駐屯地になってからは軍都としても膨張、1922年(大正11年)に始まった地下足袋生産がゴム化学工業の発展に結びつく。
太平洋戦争末期、1945年(昭和20年)8月11日の久留米空襲により死者212名、焼失戸数4,506戸を出した。
1911年(明治44年)9月13日 – 市章を制定する 。
2001年(平成)13年4月1日、特例市に指定。
2008年4月1日、中核市に移行。
2015年11月2日 – 久留米市を中枢都市とし、大川市・小郡市・うきは市・三井郡大刀洗町・三潴郡大木町と「連携中枢都市圏」を形成することを宣言する。
※参考文献:Wikipedia、久留米市ホームページ