秀吉と八ツ墓(医王寺)※久留米めぐり44・久留米藩物語

太閣秀吉が三十五万の大軍を引き連れ、薩摩の島津征伐のため九州に乗り込んで来た時、秀吉の後押しで久留米の高良山の座主となった麟圭(りんけい)に挨拶に来いと言ったところ、麟圭(りんけい)は秀吉を馬鹿にして衣の下に鎧を付けて行ったので、秀吉はたいそう立腹したそうだ。
秀吉は、九州平定に功績のあった毛利家の小早川隆景(たかかげ)と、秀吉に寵愛され名前に「秀」を貰った隆景の養子秀包(ひでかね)に筑前一国五十二万石・肥前二郡・筑後二郡を治めさせた。(隆景と秀包(元包)は毛利元就(もとなり)の息子で実は兄弟である)
これが、久留米藩の始まりである。

勿論、髙良山も秀包の領地内にあったが、麟圭(りんけい)ぁ領地ば取り上げられたちゃ言うもんの住んどる高良山がお城ンごつあるし、千人からん家来持っとるもんぢゃけ上納ば納めんばっかりか、秀包(ひでかね)ん言うこつぁいっちょん聞かん。
そっで秀包(ひでかね)ぁこりやぁ秀吉様の御偉光にもかかわるこつと高良山ばムチヤクチャに攻め立てたろうち言うもんたい。
ところが地の利 ば知らん悲しさで何べん攻めてん勝ちきらん。勝ちきらんもんぢゃけ遂々仲直りばするけ篠山城迄出て来てくれち申込うだ。麟圭(りんけい)ぁそりば聞いて、俺が力がわかったかち鼻高々にして、高良山ば下(オ)ぢって篠山城さね子供の良巴まぢ連れち堂々と乗り込うだ。
うんとごっつぉになって帰りかゝったら、どうも妙な気配のするもんぢゃけ、ハーッと道ば東さね変えち馬に一鞭くれち走ったが筒川で逃げ道がなか。
又南東さね走った。ばって秀包(ひでかね)は仲良りば申し込うだ時から帰り路で殺すつもりぢゃったけ、どん道にでん家来は待ち伏せさせとった。
麟圭(りんけい)ぁ酔うとる上、家来ぁ六人しか連れち来とらんじゃったけ、ようよ東町ん墓ん処まで逃げて来たばって、ここで八人とも切り殺されちしもうた。
そりがあんまりムゴか殺されかたぢゃったけ、近所ん者どんか「ムゾーなげ」ち殺された八人の墓はそこんとこに建てち ゃって供養したつが八ツ墓。殺されたつぁ天正十五年の五月十三日の晩で場所はお城の東ん方の柳原ちも言われとる。

120723-26