高良大社 福岡県久留米市御井町1

神々の起源

古代、日本人は山を信仰し、山は神々が宿る存在として祭り続けられてきた。全国に残る霊山に見られる様に、また、比叡山を出発地点として優れた宗教家達が生まれた様に、日本独自の宗教が培われる時、その出発地点は山からであった。

川が流れ、その川の恵みで多くの人が農作物を作り生活を営んできた大昔を思うと、古代の人々は水を運ぶ山を見上げ、そこに神秘的な存在を認め、山に神々が宿ることを確認し合ったに違いない。現在の様に照明もなく、夜、家の外に出ると、静寂の中に獣達の声が聞こえ、そこには高々と山がそびえていた頃の話しです。

弥生時代から始まったと伝えられる日本風土の原点である稲作文化が培われる時も、水を運び込む山を見上げ、人々は驚異の目を見張り続けてきた。農作物を作り、街を作り、そうして切り開かれてきた平野部とは異なり、多くの山々は昔のままの姿で存在し続け、文明が発達した現在も、人々が簡単に行き来できる場所ではない筈です。日本の様に、誰もが生活のそばに山があることを確認し合うことができる民族は、世界でも稀でしょう。日本には海のそばにも山々がある。世界が見る時、そこには独特の風景が存在していた訳です。

山水画を描いてきた中国大陸に住む人々も、皆が全く同じ価値観を分かち合っていた訳ではありませんでした。広大な平野部に生活する同じ大陸の民族が見る時、その山水画は非日常的な中国芸術だったことでしょう。

福岡県久留米市高良山、高良大社。多くの歴史と謎を持つ所です。ふもとで発掘された古墳が、「魏志倭人伝」記述の古墳に似ていることから、邪馬台国はここにあったのではないかとか、「高良」という名前から、大和朝廷以前、朝鮮半島と関わりが深かったのではないかなど、諸説飛び交う場所でもあり、また大和朝廷時代から明治時代に至るまで、ここで、日本の歴史を決める重要な戦いが、幾度となく繰り広げられた場所でもあります。

日本書紀に記される日本の歴史上最大の反乱「磐井の乱」。南北朝時代の日本統一の大合戦「大原合戦」(日本三大合戦、2万人死亡)をはじめ、最近では、明治政府にそむいて反乱を試みた応変隊まで、何か起きれば高良山を拠点に人々が集い、そして数え切れない人々がこの山で生涯を遂げていきました。

以前高良山は「高牟礼山」と呼ばれていました。日本書紀の注釈を見ると、「牟礼」は韓語で山を意味すると記されていますが、現在、高良大社で社史編纂室長をされている古賀壽さん(※注1)によると、これは日韓古代共通語であり、この事で韓国から来た名前と解釈するのは適当ではないことを説明された。

日本語と韓国語は今でも文法が同一ですが、発音に関しても、某広告代理店が二千年前の日本語を正確に調べ、数年前CMにした、「チャップイ チャップイ ドントポッチィ」という音から想像できる様に、日本語と韓国語は同じ様な発音をしていたようです。高牟礼山とは、文字通り高い山を意味するもので、大昔の人々は、この山を見て素朴に神が宿どるものと信じ、その後奈良時代以降になると、この神は「高良玉垂命」と呼ばれる様になりました。

「其の山の峰岫重なりて美麗しき甚なり。若し神その山に有しますか」

「女神有します。名を八女津媛ともうす。常に山の中に居します。」

日本書紀の記述の中には、高良山のすぐ南に位置する八女に「八女津媛」という神がいることが記されていますが、ここ高牟礼山の神については記述がなされていなかった。「古事記」「日本書紀」に記されなかったこの神は、奈良時代720年の「日本書紀」編集以降、地方豪族が持ち伝えたそれぞれの祖神の伝承を統合する為、神話上の神、歴史上の神として編集作業の中に試みられ、「武内宿祢説」や「景行天皇説」等諸説が生まれたのではと古賀さんは語られる。

それでは、古代から高良に祭られていた神とは一体誰なのだろうか。高良の神は誰が、何の目的で祭った神なのか。

日本の神はそもそも西洋の様な唯一神(GOD)ではなかった。様々な神が存在し、また様々な形で、時代と共にその時代に合った解釈がなされ続けてきた。世界の神々の発展を見ると、共通点が確認できる。太陽や山や川など、自然の存在に驚異の念を持ち、素朴にそれらを神として観じる「自然神信仰」からはじまり、自分の祖先を神に求める祖神としての「人格神」へ、そして政治権力が存在すると、それらの神々は統一され、民族共通の神へと発展していった。

エジプトでも太陽=ラー神の子は、最終的には2百以上の子息としての神々を持ち、地域権力者はそれぞれの地域でそれぞれの神を祭り始めた。その後それらの地域権力が統合される度、遠縁になった神々は、改めて身近な血族として解釈を改められ、複雑な発展を遂げていった。

古代の日本では山を中心として神々が宿っていた。40年間高良山を研究し続けている古賀壽さんは、高良の神をこう結論付けている。

古代、高良の山の四方には、それぞれの氏族が存在し、この山にそれぞれの神の存在を認め合っていた。高良の神は、いわゆる水沼君、筑紫君、的臣ら、北部九州古代氏族の共通の祖神であり、磐井が出現する以前から、大和朝廷はこれら北部九州を掌握していた。そして大和朝廷の朝鮮半島進出、筑紫びとの国際交流という歴史的背景の中で成長を遂げた祭神が、高良の神ではなかろうか。また、高良山にはもっと古くから人類が生活していた痕跡が残っている。高良山南谷の谷頭(13カーブ下)で、紀元前3万年程以前、後期旧石器第一文化期の石器が発見されました。もちろん久留米では人類としてもっとも古い痕跡であることになります。

「久留米市史」等にも紹介されているこの石器は、同誌その他からの写真公開の要望を一切控えていたそうですが、今回古賀さんのご好意により、紹介させて頂くことができました。素人目には一見普通の石にしか見えませんが、石器として丹念に打ちかいた跡があり、黒いサヌカイト(火山岩)が使われています。高良山の麓にも「魏志倭人伝」記述の卑弥呼の墓に似たものが発掘され、これが卑弥呼の墓という説もありますが(方墳で回りに百体程の遺体がある点で一致)、いずれにせよ、高良山信仰はもっと古代に遡り、いつが起源であるかは今となっては知るよしもありません。ただ、古代九州共通の神が、ここ高良の地で祖神として祭られていたことが考えられる訳です。

金籠石の謎と磐井の乱

「長門より東を吾が制するので、筑紫より西を汝が制せよ」

時は528年、日本書記の記述に出てくる継体天皇が物部麁鹿火に言い当てた言葉です。事態を重く見た大和朝廷当時の天皇、継体天皇が、九州と本州を分割するにまで考え、悩んだ挙句に出した結論でした。そして国家を統一する者をそこまで脅かした人物の名は、日本書紀に「磐井の君」と記されていました。

その昔、大和から見て南の端は筑紫(いきつくし)と呼ばれ、逆に北の端と陸奥(みちのく)、と呼んでいました。陸奥にはまだ行く先(みちの奥)が見えていたのですが、筑紫の南には、山々があり、この福岡県南部の連山、耳納連山を境にしてその向こうにある現在の熊本以南は未開の地、大和朝廷から見て外の国(九州南部民族は隼人と呼ばれ、この時代以後、隼人征伐が盛んに行われていました)でした。そして、ここ九州北半分を統治する地名であった筑紫は、朝鮮半島との交流を通じて早くから船舶技術に長け、尚且つ、外交事情に精通しており、大和朝廷から見て筑紫は訳が分からない存在でもありました。

九州は歴史的に中央政府に幾度も反乱を続けてきました。佐賀の乱、秋月の乱、藤原広嗣の乱、その他様々な反乱がある中で、最大にして最長の反乱が大和朝廷時代の磐井の乱でした。1年半の長きの乱から察すると、この乱は、磐井軍単独の反乱ではなく、九州全体が味方して行われた大反乱ではないかと古賀壽さんは語られます。

当時天皇には、物部氏と大友氏という側近が付いていました。大友氏(※注2)はその名の通り天皇のお供をする者(大は天皇を意味する)、すなわち近衛兵であったと考えられています。また、天皇の傍から離れられない大友氏に対し、物部氏は遠征部隊として方々を回る軍隊でした。反乱を起こした磐井を鎮めるために、継体天皇は物部麁鹿火という人物を、この大和朝廷軍の総指揮官に選任し、この大部隊は、九州に遠征され、御井(高良山麓)で大激戦が展開されたという事を日本書記は伝えています。磐井は、山(高良山)と川(筑後川)を利用し大和朝廷軍に立ち向かい、戦闘は、長期化した。古賀先生はこの点を以下のように指摘します。

「外交事情に詳しかった磐井の君は、当時の日本にはなかった城の考え方を朝鮮式山城から得て、高良山を山城とし、防衛拠点としたのではないか。その名残が高良山に残っている神籠石ではないだろうか。ただ実際に発見された夥しい数の神籠石は、朝鮮式山城に見られる実用的な土塁や石塁ではなく、むしろ、その石を超えて一歩足を踏み入れると霊気がなくなるといったような神籬、磯城、磐境と同様の呪術的要素を持って作られている様だ。」(※この点神籠石の学会の有力説は、6世紀後半からの対韓緊張の時期から、7世紀初にかけて、外敵の侵攻に備えて大和朝廷が築いたものとされています。)

しかし、何故磐井の君は反乱を起こしたのだろうか。この謎は解明されていない。当時の筑紫は既に大和朝廷の支配化にあったものと考えられています。その大和朝廷に反乱を起こした背景には何があったのだろうか。大和朝廷時代の九州は、一体どういう存在だったのだろうか。大和より先に外交事情に精通していたとも言われる当時の九州は何を考え、大和国家の中で、どういう存在であったのだろうか。

古代から、九州は軍事技術に長けていた。当時の九州には軍事的環境が整っていた。北野町は、奈良時代まで続く南九州の隼人征伐のための軍事拠点であったし、大城町もその名の通り大友旅人が隼人征伐を行う際の軍事拠点にしていたと考えられています。また、浮羽郡のウキハはそもそも「的」と記されるもので、最近浮羽郡で次々に発掘されている装飾古墳の中に必ず描かれている◎マーク(同心円)は、的を意味し、その周辺に古くから、軍事技術を持った氏族が存在した事も考えられます。(※この点有力説として、◎マーク=太陽のシンボルとする見方がある。小郡市三国丘陵からも夥しい数の馬の墓が発掘されているが、、これも当時磐井の時代に軍馬が活躍していたことを示すものの様です。さらに耳納より北側には朝鮮半島に渡るための一大軍団が存在していたようです。)当時九州が目を向けていたのは大和朝廷だけではありませんでした。東シナ海のすぐ向こう側には百済、新羅といった朝鮮半島勢力があり、その後ろには中国大陸の力が見え隠れしていました。既に九州は朝鮮半島との交流や争いを経験し、当時の九州は国家勢力がどのような位置関係で動いているのかといった国際的視野を養っていたと考えられます。筑紫は航海技術に長け、磐井もまた朝鮮半島と交流を持っていました。また、この頃現在の釜山近郊に、日本府が存在していたという話もあります。(※韓国の学者からの反論有り)

当時の九州は、朝鮮半島に近い外敵の侵入に備える一大軍事拠点でした。同時に大和朝廷はその負担(軍事的、資源的)を北部九州筑紫に強要し、朝鮮半島進出を伺っていた様です。そしてこれらの負担に苦しむ九州土着氏族の立場を考え、また、当時朝鮮半島進出を伺っていた大和朝廷に反発する新羅の支援も受け、磐井は反乱を試みたのではないかと考えられます。ただ、磐井には、ひとつの疑問が残されます。磐井は土着の氏族ではなく、天皇家に近い血筋であったという説です。(※注3)当時の継体天皇ははその名が示すように天皇の体を引き継いだ、いわゆる、血族としては直系ではなく、正統な後継者として簡単に認めてもらえなかったという事情があります。その点、外交問題を抱えている九州に、中央から、派遣されていたとも考えられる磐井の存在は、実は継体天皇にとっても血筋を争う立場であったことが伺えるようです。(古賀先生指摘)

それでは、本当の九州土着の氏族とは誰なのか。そもそもこの地を統括していった、古代の勢力は一体何だったのでしょうか。筑紫には水沼の君がいた。日本書記にも「筑紫の水沼の君」とある。水沼とは、再生儀礼を行うもの、すなわち人は母親の体内の羊水から生まれることから、神の子もまた水から生まれるものと信じられていた。そして赤ちゃんである神にみそぎをし、お世話する家柄が水沼の君であると考えられています。水沼の君は筑紫一円に勢力を持つ者であり、その後、その地の氏族と共に高良の神を祖先神として崇めていく様になりました。

※この点邪馬台国九州説がの問題が発生するが、古賀先生は、以下の様に考えられている。邪馬台国は魏志倭人伝が作った虚構ではないか。当時の日本は(3世紀)、既に大和朝廷によって統一されていたはずです。当時中国が他国を属国としてみなした習慣である遠夷朝貢に見られるように、当時の日本もまた、大和に統一されていない属国であると解した虚構の書物が魏志倭人伝と考えられます。どれが、戦後の米の占領政策によって復活され、教育の中に盛り込まれてきたものでしょう。ただ、邪馬台(ヤマタ)は大和(ヤマト)の当て字である様に、大和の名残はこの魏志倭人伝にも残されているようです。当時女王の名前が卑弥呼などという呼ばれ方をされていた可能性は低いと思う。(※邪馬台国=邪な馬が大地にごろごろしている国 ※卑弥呼=卑しさを弥(いよいよ)呼ぶ

九州は高良の神を中心として一体であった。また、一体にならざるを得なかった。なぜなら九州はひとつの島であり、北には本州(大和)、西には多くに島々とその向こうには朝鮮半島、そして大陸という大きな勢力に囲まれていることを知っていたからです。そして磐井は、確認できる日本の歴史上、大陸的視野で事態を判断することを試みた一人の地方君主であり、筑紫の国は、中央政府、大和朝廷に大反乱を行った唯一の国となった。そしてその勢力は現在の高良大社(高良の神)を中心に団結された勢力であった事が考えられるわけです。

※注1 古賀壽 歴史学者。日本考古学協会員。現在高良大社社史編纂室長。大和町史編纂執筆委員、その他様々な現役の仕事も担当している。出筆多数有。連絡先 電話 0942ー43ー4893

※注2 物部=物(霊魂)を身に付けた強い兵士。当時の人は霊魂を体に身につけ力を付けるものと考えていた。その一つの例が「勾玉」で、玉のひとつひとつの鋭角な先端に、霊を身に付けることにより強くなれるのだと信じられていた様です。

※注3 磐井皇族説。大正時代、益田謙三氏が書いた「赤裸々の神代」による説。

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