RyoumaSakamoto&IzumiMaki : 龍馬と真木和泉守

龍馬と真木和泉守

霊山のふもとにある坂の途中に翠紅館(すいこうかん)跡の立派な門がある。

翠紅館は、幕末の頃、西本願寺の別邸であり、文久3年(1863)には土佐藩の武市半平太、長州藩の井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、ついで同年6月17日にも長州藩の桂小五郎、久留米藩の真木和泉守らも募りました。これが歴史に名高い「翠紅館会議」です。
集まっていた志士の中には、土佐藩・武市半平太、長州藩・井上聞多、同・久坂玄瑞(げんずい)、同・桂小五郎、久留米藩・真木和泉守らがいた。
翠紅館は、今も「京大和」という料亭として残されている。

真木和泉守。江戸末期、久留米にある水天宮の本宮(現在水天宮は全国に60社あります)の祠官を勤めていました。
明治維新時、和泉守が書いた「大夢記」(※注1)には、江戸幕府を討す戦略が描かれていた。明治維新の口火ともいえる「蛤御門の変」は彼の計画から出されたものでした。しかしながら維新の立役者である真木和泉守の事を知る人は、意外に少ないのではないだろうか。

真木和泉守をとりまく環境

当時、世界は「産業革命」という経済的、文化的大変化が始まった頃であり、ものすごいスピードで世の中が進化している最中でした。折しも日本は隣国の中国におけるアヘン戦争以後の西欧烈強の侵略の脅威を目の前にし、幕府はペリーによる黒船来港の際日本に不平等な日米和親条約を結び(1854)、その後大老である井伊直弼は皇室の意向を無視し、勅許のないまま日米修好通商条約(1859)に調印を行いました。
米、英、露、蘭の諸国を相手にした江戸幕府の非力な外交に国内は騒然としました。そしてこの頃から、この国ではいつしか、強い日本国を作る為の合言葉として、「攘夷」という言葉を口ずさむ同志が芽生えていきました。さらに、強い国内体制統一の為の手段が「尊王」であり、いわゆる「尊王攘夷論」は全国を駆け巡っていったわけです。
薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥前(佐賀)、久留米(福岡南)の五大藩は明治維新時「薩長土肥米」と称され、維新の最前線で活躍した五大藩でした。しかしながら「薩長土肥米」はいつの間にか「薩長土肥」と呼ばれるようになり、久留米藩の名は、明治維新に多大な貢献をしながらも、いつの間にか消え去っていきました。
ある事件がなければ、久留米藩は今でも維新の立役者として、その名を歴史に深く刻み込んだことでしょう。そして真木和泉守が生きていれば、久留米藩は、維新後の明治政府で、薩摩の西郷隆盛や大久保利通よりも、また土佐の坂本竜馬よりも大きな指導力を持って新しい世の中を築き上げたかも知れません。
しかしながら真木和泉守は、長州軍の実質上の総指揮者としての敗退(※注2)の責任をとり、かの有名な天王山にて、追ってくる新撰組を壊滅に追いやりながら、17名の門下生と共に割腹したのです。

大山の峰の厳根に埋にけり我が年月の大和魂

歴史的にドラマチックなこのシーンも、新鮮組が主人公として成り立つドラマには脇役となり、舞台の表に登場することもありません。

真木和泉守は薩摩、長州と意図を通じる役目を持ち、又、後の総奉行の水野玉名と大変親しかった。さらに、当時の久留米は各地の尊王攘夷派の情報中継地になっており、江戸幕府には脅威的な存在でもあった。真木和泉守は長州尊攘派と共に歩んでおり、天保学連と呼ばれていた。
一方久留米藩十代藩主有馬頼永は水戸学派に学んでおり、鍋島直正、島津斎彬、山内豊信らと交流があった。そして藩内に弘化の改革(※注3)をもたらしました。
真木和泉守はこの若い藩主である頼永を積極的に支援しました。しかしながら、頼永が若くして25歳で没してしまうところから久留米藩の歴史は大きく変化します。江戸幕府は久留米藩に急速に接近します。頼永の弟頼咸に徳川家はなんと将軍の娘を嫁がせます。将軍の娘が嫁入りすると聞いた久留米藩は、急いで寺町を作り、江戸幕府に恥じないような街作りを始めます。そしてこれ以降、久留米藩は江戸の馬喰町から莫大な借金を背負うことになり、さらに、頼咸の弟である富之丞は、松平藩に養子入りすることになりました。

久留米藩は尊王派から佐幕派へと百八十度の転換をするわけです。もちろん藩は大混乱、藩内権力抗争が始まります。真木和泉守ら天保学連は十二年間禁固(下記・真木泉守の足跡 参照)となりその後脱藩、長州側に組するわけです。この結果、天保学連は、地場を背景にして活動することはできなくなりました。
ただこれにより、真木和泉守の討幕行動はおのずと早まったのかも知れません。それが明治維新のきっかけとなったことも事実です。
しかしながら、一連の久留米藩の混乱は、明治維新後に藩内の有力人材を残す事ができなかったという悲劇的な結果となります。佐幕派に傾いた人材も、明治維新によって(一家老、十藩士)切腹、禁固処分を受けることになりました。まさに久留米藩は時の流れに翻弄されるわけです。
大政奉還後、総奉行となり、また生前真木和泉守と親しかった水野玉名は、先の藩内権力抗争により、真木和泉守を脱藩に追い込んだ久留米藩佐幕派を、弾圧するに至ったわけです。その結果、久留米藩には、右にも左にも人材がいなくなり、維新後すっかり影を潜める事となりました。

真木和泉守の足跡

「尊王攘夷論」を明快に論じ、具体的な指針を示していったのは他でもない真木和泉守でした。その始まりは、永きに亘る幽囚生活からでした。
藩政改革を企て失敗した真木和泉守は、水田村(筑後市)の天満宮留守職である実弟の家に蟄居を命ぜられるが、水田村の青年達はいつしか和泉守に教えを乞うようになる。幽囚2年目には「山梔窩」と呼ばれるわらぶきの家を作り、移り住む。その後弟子たちも増え続け、天満宮の本坊を借るようになり、さらに、久留米からも多数の同志が集まりはじめました。
幽囚7年目(1858)になり、井伊直弼が天皇の勅許を無視して、日米通商条約に調印した際、和泉守は三条実方卿に「急務三箇条」「天命論」「国体策」を提出したが、その年の9月安政の大獄により三条卿も内大臣から僧籍に処分されることとなりました。
しかし、幽囚九年目(1860)桜田門外の変で井伊直弼が殺害され和泉守はふたたび動きはじめます。討幕の注意事項「義挙三策」を書いたのもこの頃です。山梔窩にまず平野次郎国臣が訪れ天下の解決策について話し合いました。その後山梔窩に多くの志士達が往来するようになります。和泉守達の狙いは、まず薩摩藩を動かすことでした。山梔窩は平野を通じて薩摩の同志と連絡を取り合い、1862年和泉守、薩摩藩の許可を得て入薩。翌日、大久保利通が入薩の目的を聞くと、和泉守は「薩摩藩主島津久光公に直ちに上京していただきたい。有馬藩は親類であるので協力して欲しい」旨を伝えました。
しかし、大久保利通は和泉守を迎賓館に泊めて、最高級のもてなしはするが、和泉守が外部と接触することを見合わせます。

その年の3月16日、島津久光は一千の精鋭達を率いて上京。しかし島津の目的は朝廷、幕府の間に入り共同することであり、それを知った和泉守は薩摩の中でも島津とは別に行動することを決める。さらに、寺田屋騒動により、和泉守に必死に付き添ってきた有馬新七等が殺され、和泉守の討幕計画もやぶられ、和泉守は再び捕えられ、久留米藩に護送されます。この時和泉守は、外部から久留米藩主に圧力をかけ、その結果、同志28名と共に朝廷の護衛として上京することになります。
またこれ以後、薩摩藩は姉小路卿暗殺の責任をとられ、政局の主導権は長州藩毛利氏が握り、また長州藩と仲の良い久留米藩士達も上京して活発に動き始めました。

和泉守は長州の桂小五郎達と翠紅館に集まり今後の政治方針について話し合うことになりました。そこで出した和泉守の「五事健策」に皆が賛同するわけです。賛同されたメンバーの中には鷹司関白、三条公以下有力公卿達もいた。そして和泉守の考え通りついに1863年8月13日天皇の大和行幸の詔勅が進められる事になります。「天皇が大和に行幸され、神武天皇御陵に参拝されたその後、御親征の為の軍事会議を行う」というものです。
しかしながら、8月18日の政変が起こり、大和行幸は急遽中止、三条実美以下、7名の公卿は追放、長州藩は御所の守護を解かれ薩摩、会津がこれに代わることとなる。和泉守は山崎に陣し、毛利公、七公卿の為に勅願書を出したが、幕府は薩摩会津に力を貸りてこれを武力で打ち払うべく動き始めます。
追いつめられた和泉守もまた、1864年7月、天王山にてついに自刀。その直後、時代は維新へと急転換するが、和泉守が明治時代を見ることはありませんでした。
その後孤立した長州藩は幕府と対立し、第一次長州征伐が行われ、また四ヶ国連合艦隊が長州藩を砲撃、壊滅的ダメージを与えるなど、長州藩への弾圧が続くわけです。
そして対立2年後の1866年8月、第二次長州征伐で幕府軍が大敗してから、時代は尊王攘夷へと一気に傾いていきます。またこの八月に先立ち、薩摩藩と長州藩の間に入り秘密同盟を結ばせた仲介役は、亡き和泉守ではなく、坂本竜馬その人でした。
薩摩藩が幕府支持から180度の政策転換を計ったことについて、西郷隆盛は「いずれ滅びる幕府と手を組むよりは雄藩の手で日本の運命を切り開いたほうが良い」と語ったそうです。
佐幕派に急転換した久留米藩を背景に活動できなくなった真木和泉守は、まず、薩摩藩を動かそうと働きかけました。しかし、薩摩が動かない事を悟った和泉守は、次に長州に働きかけます。結果として長州は幕府と対立し、第二次長州征伐で幕府が敗退した瞬間、誰の目にも明らかに、時代が維新へと動いていたわけです。
今考えれば明治維新も、大政奉還ではあるものの、軍事クーデターというわけですが、日本を変えたこの大事変を、真近で見て来て、そして理論的にまわりに働きかけ、多くの同志に影響を与えてきた第一人者が真木和泉守だったわけです。

※注1「大夢記」以外にも、討幕論について書かれた「義挙三策」があります。
内容は挙兵方策として

1、大名と組んでの挙兵
2、大名の兵を借りての挙兵
3、浪人のみでの挙兵
の三策に分けて記されています
※注2 江戸幕府に対して反乱を行った長州に対し、幕府が行った長州征伐。第一次長州征伐、第二次長州征伐の二回に渡ります。

※注3 1、長崎聞設(外国事情の研究所)の設置
2、西洋砲術の研究鋳造
3、民間人の軍隊化
4、五年間の大倹約
5、水戸藩との藩士交流 など
※久留米藩 久留米藩は度重なる権力者の入れ替わりの為、藩主名で呼ばず久留米藩または略して米藩と呼ばれる事があります。有馬家が永らく藩主となっていた為、通常有馬藩と称されます。

※山梔窩 和泉守が「口は災いの門」と自からを戒める為に「くちなしのや」と命名されました。「さんしか」とも呼ばれる。

※坂本竜馬 最近の研究では薩摩藩に残る古文書などから、坂本竜馬は薩摩と長州の間に入り、仲介をしたというよりも、仲介役に使われたという見方をされています。
仲介役と呼ぶには、真木和泉守をおいて他にいないことは、歴史学者の多くの方が認める処です。

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