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江戸時代に久留米城の「東を守る砦(とりで)」として26の寺院が集められ、現在も17の寺院が立ち並び、往事の面影を伝えている久留米市寺町。 寺町を始め、石橋文化センター、石橋美術館、中央公園周辺は「南薫地区」と呼ばれています。

久留米藩十代藩主有馬頼永は水戸学派に学んでおり、鍋島直正、島津斎彬、山内豊信らと交流があった。そして藩内に弘化の改革をもたらしました。
明治維新の立役者である真木和泉守はこの若い藩主である頼永を積極的に支援しました。しかしながら、頼永が若くして25歳で没してしまうところから久留米藩の歴史は大きく変化します。

江戸幕府は久留米藩に急速に接近します。頼永の弟頼咸に徳川家はなんと将軍の娘を嫁がせます。将軍の娘が嫁入りすると聞いた久留米藩は、急いで寺町を作り、江戸幕府に恥じないような街作りを始めます。そしてこれ以降、久留米藩は江戸の馬喰町から莫大な借金を背負うことになり、さらに、頼咸の弟である富之丞は、松平藩に養子入りすることになりました。