菅原道真とカッパ伝説 (筑後国北野天満神社)

三井郡北野町。五穀の実り豊かなこの地に、後冷泉天皇の勅令で、京都北野天満宮の分霊が祀られたのは平安時代、1054年(天喜2年)のこと。それ以降この地は北野と呼ばれるようになりました。

醍醐天皇の御代、右大臣の要職にあった菅原道真公が、時の左大臣藤原時平のざん言、すなわち告げ口をされ、九州の太宰の権師という役職に左遷されたのはご存じの通りで、現在、九州太宰府天満宮は菅原道真公を学問の神様として祭ってあります。その菅原道真公の没後、欲しいままに権力を手中にした藤原氏の専横に対し、怒り、罰としてこの世に数々の厄災をもたらしたとされる道真公の恕霊を慰める為、醍醐天皇が建てられたのが京都北野天満宮であり、後冷泉天皇の代には、分霊が道真にゆかりのある北野の地に移されることになりました。

三井郡北野町と道真公とのゆかりについては、道真公が京都から太宰府へ下向の途中、藤原時平の追手を逃れ大分に上陸、筑後川を下り北野に来られたということですが、その時のエピソードとして道真公とカッパにまつわるものがある。その一つは、道真公が北野の川で馬を水に入れようとした時、カッパが川の中から馬の足を捕え、川の中に引き入れようとするので、驚いた道真公が刀を抜いてカッパの手を切り落としたというもの。もう一つは、道真公が北野の岸辺で追手に襲われた際、カッパが道真公を助けて戦い、戦いの相手がカッパの手を切り落としたというもの。

まったく逆の解釈がなされている2つの説ですが、ただ共通して伝えられているのは、このカッパはカッパ族の頭で「三千坊」と言ったそうで、その時切り落とされたカッパの手は今でもお宮に残っており、25年に1度一般公開されているそうです。実際にそのカッパの手を見せていただくと、確かに、のびきった爪や関節などは何者か想像がつきません。手は完全にミイラの様に腐敗してはいるものの長さは人間の手より短い事は一目瞭然で、しかし指の数は確かに5本あり普通の動物ではないようです。神主さんも「いったい何なんでしょうね。」と首をかしげます。
風流はともかく、この筑後国北野天満神社は、京都の北野天満宮の神領であったわけで、文化財や宝物等が数多く残されています。
源平の争乱時には、社殿が一時破壊されたが、源頼義、そして源頼朝によって社領を寄進されることになりました。その後足利義満の代には、筑後一円を荘園として認められることになりました。 豊臣秀吉の九州征伐時には、社領は没収されましたが、その後田中吉政によって社領として52石が寄進されるなど、北野天満宮は時の権力者にその存在を認められてきました。

先に述べたように道真公が、大分の日田を経て筑後を下って太宰府入りしたのだという説に基づくと、その経緯は防府~宇部~椎田~中津~日田~北野~太宰府となっており、簡単に太宰府に入れたわけではないようです。北野に上陸された道真公は、一路十郎丸に向かい、藤原時平の追手の目から逃れる為、京都から着付けてきた衣裳を脱ぎ捨て、その衣裳を焼き、灰は地に埋めたとされています。現在この地に残るの石王丸(衣裳丸)や灰塚の地名はこのことに起因していると伝えられます。

東風ふかば匂いおこせよ梅の花
あるじなしとて春を忘るな

百人一首にある菅原道真公の有名な一句です。
文化財の指定がある「筑後北野天神縁起」3巻からなるこの縁起の中の第1巻には菅公の生涯が記されており、「菅公紅梅殿にて梅と惜別の図」が描かれている。当時の交通事情えお考えて、ここから京の都までの距離を考えると、確かに都への思いは何とも言えない程「遠く想いをはせる」ものだったに違いありません。