久留米市の名前

  • 『久留目』の名称が室町時代(1418年)の「報恩寺坪付帳」に見られますが、「久留米市史」によればこちらは何を指す名称かは特定出来ないとのことです。
  • 豊饒永源の居城した天文2年(1532年)「九州治乱記」に初めて『久留米城』と記され『久留米』の名が見られます。

語源について

  • 『久留米』の名称は、筑後守吉志公忠(きしのきんただ)が天慶7年(944年)に注進した「筑後国神名帳」に『玖留見(くるみ)神を祭祀した』との記述が見られ、見と目が相通じることに始まります。
  • 上古、大陸から渡来した機織りの工人集団がこの地に住んでいたので「呉部(繰部くりべ)」の居住した地、あるいは「呉姫(くれひめ)」、「呉女(くれめ)」、「繰女(くりめ)」とよんだのがクルメに転訛したというもの。
  • 用明天皇の皇子である「来目皇子(くめのみこ)」に由来するというもの。(来目皇子は新羅討伐のため筑紫に下り推古11年(603年)福岡県糸島郡志摩町久米で病死している)
  • 筑後川が大きく蛇行していることから、それを意味するクルメク(転く)を語源とするもの。
  • 昔全国にアイヌが住んでいた頃の「日本の男ん子」という意味のアイヌ語”クルミ”が語源というもの。

などの諸説があるが定説はない。